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☆★☆ コズミック・ディスクロージャー ★一なるものの法則 21~25★ ☆。・:*:・゚`★

May 9, 2018

1976年初期に行った仕事が、私にとって最後となりました。
私は、一般にはループス/狼瘡として知られている、全身性エリテマトーデスの数ある症候の一つである、厄介(やっかい)な若年性リューマチ性関節炎を発症していたのです。

その為私は、13歳の時に腎不全状態に陥っていました。
1956年の時点では、現在の腎不全患者が治療可能な進歩した技術が、利用可能ではなかったのです。

実際、それは奇跡でした。
私は、生きながらえたのです。
私は左右の腎臓のおよそ半分の機能を失いながら、生きながらえたのです。

私にとって有利な状況が続いて、実りのある人生を送って来られたことは、非常に幸運であったと思っています。
今でさえ、訓練、食事、友人、及び運命の助けのおかげで、私は本当に恵まれていると感じています。
しかし、私の活動は限られています。

これまでのドンと私の調査は、高度に超常的なタイプのヒーリングに関する知識をもたらしました。
このタイプのヒーリングを私達が心から実験することになったのも、私の身体的障害の故なのです。

心霊手術は、正統的な外科的手術や薬物療法とは何の関係もありません。
それは、証明不可能ではありますが、一種の信頼によってもたらされるヒーリングのようなものなのです。

これは科学者達だけでなく、この現象に関して門外漢の人からも、無視と不信という当然の反応を自動的にもたらすものなのです。
長年の調査を経た上でなければ、私達もこのような超常的なヒーリングを同じように信じることができていなかったでしょう。
とはいえ、心霊手術を調査するほとんどの人のように、私達はこの可能性を調査することによって、何も失うことはありませんでした。

心霊手術の患者は、かつて失われることはありませんでした。
何故ならば、患者達の肉体には、実際には何も起きなかったからです。

それは真に、サイキックなヒーリングなのです。
結果として私達は、心霊手術の可能性について検証する為にいくらかの時期を、フィリピンとメキシコで過ごしました。

心霊手術の施術者が目の前で見せてくれることを再現すると、このようになります。

フィリピンのとある寝室で、患者は慎ましさを保つ為に必要な最低限の衣類以外は、全ての衣類を脱いでベッドに横たわっています。
しばしば、そこは、モーテルのバスルームから借りて来たようなシンプルなシャワーカーテンで覆(おお)われています。

信心深く、ヒーラーになる為に10年、或いは12年の歳月をたった一人でルソン島の火山の荒野を彷徨(さまよ)い歩き祈り続けて来たヒーラーが、部屋に入って来ます。
彼は、聖書と思わしきもの以外は、何も携(たずさ)えてはいません。

しばしば、そのヒーラーは一人のアシスタントを従えています。
そのアシスタントは、私達の慣れ親しんでいる言語へヒーラーの発する言葉を通訳する他に、片づけを担当します。

ヒーラーは通常、英語をほとんど解しません。
彼、或いは彼女は、患者の身体の上で掌(てのひら)を下にして、手を動かすことによって施術を開始します。

私達は、X線装置でそうするように、患者の身体を調べているのだと説明を受けました。
このようにして“手術”の場所が決まると、ヒーラーが右利きならば、左手が手術箇所の皮膚にしっかりと押し当てられます。

皮膚は切り離されたようで、身体の内部が見えます。
この施術はとてもリアルに見えるので、本物の外科手術を見たことがあって起こっていることを注意深く見ていない人は、身体が素手で切開されたと断言することでしょう。

右手が切開された場所に挿入され、その身体の中で作業が行われます。
私が参加した最も印象深いケースでは、ヒーラーが私に、私が関節炎を患っていると告げたのです。

彼は、彼のアシスタントの助けを受けながら、私の身体をスキャンしたのです。
そして、彼は、腹部を切開して、手際よく、優しくしかし、しっかりと、関節というより組織のように見える何かを取り出したのです。

それは患者である私には、気持ちの良いものではありませんでした。
その行為は、私を戸惑わせたのです。
というのは、私はそのような内部組織に、関節炎を患っていた訳ではなかったからです。

そして、彼は三つのやや小さい、長い血まみれの物体のように見える何か取り出したのです。
そのうちの真ん中のものは、小さくて硬いものでした。

このことが終わると、彼は左手を私の身体から離しました。
切開部は、跡形もなく消えました。

このケースでは、二人の男がかなりの量の血を拭き取りました。
そして、手を洗った後に、ベビーオイルを手に取って、それを私の腹部に塗りながら黙ってマッサージをしてくれました。

ヒーラーが腹部で何をしていたのかを尋ねると、通訳が私の質問を取り次いでくれ、その答えを通訳してくれました。
スキャンの結果、私の右側の卵巣に三つの嚢腫(訳注 : 読み方は“のうしゅ”。体液が溜まったある種の腫瘍。)があると分かったそうです。

私が元気だった頃に、両方の卵巣の誤配置、或いは垂下が起こったそうです。
その卵巣の誤配置が元の位置に戻されたので、私は月経期間中に不快な症状に悩まされなくなるだろうとのことでした。
嚢腫の切除は、同じ目的でなされたそうです。

私がまだかなり若かった頃に、産婦人科医は私には三つの小さな嚢腫があると診断していましたが、私はそのことをドン・エルキンスにも他の誰にも話をしていませんでした。
そのような話には、誰も興味がないと思ったからです。
このことを、私以外は私の母だけが知っていたのですが、彼女は一万二千マイル(訳注:およそ一万九千キロメートル)離れたところにいたのです。

米国に帰国した後、心霊手術を受けた患部について、かかりつけの産婦人科医の診察を受けました。
産婦人科医は三つの嚢腫は、もはや触知できないと証言しました。

それらは、なくなってしまったのです。
そして、これに伴って、私の月経周期は遥かに快適なものとなりました。

磁気ヒーリングとして、ヒーラーによって行われたベビーオイルを使ったマッサージは、素っ気なく質素でした。
ヒーリングを支援する為に、ヒーリングの影響範囲内とその周辺には保護光が照射されていました。

ドンと私は、患部の除去の為の肉体の切開、肉体の傷口の閉鎖、血液、及びその他の物質の出現は、幽霊やUFOの物質化と同じタイプの物質化だと信じています。
その為私達は、心霊手術の標本を保存しようとはしませんでした。

この調査が、現代では、存在している科学的手法の厳格さを満たしていないとは思いもよりませんでした。
しかし、私達は、そのような出現現象の分析の結果を見ることによっては、私達は何も見い出すことがなかっただろうと信じています。
たとえ、患者がどんなに癒やされることを望んでいても、彼は肉体を切開されることに神経質に、そして、不安になるのであり、肉体的にも精神的にもトラウマを負うようでした。

私がこの心霊手術を経験した人と話した限りでは、ヒーラーの手が患者の上に置かれるや否や、全ての人の内面において明らかな感情的な、そして、精神的な態度の変化が起こりました。
心霊手術医は、それを精霊の臨在と呼びました。
それは、この心霊手術現象の一部と見なされるべきでしょう。

1977年の後半から1978年の前半にかけて、私達はアンドリア・プハリッチとその同僚と一緒に、メキシコシティへメキシコ人の心霊手術医の調査へ行きました。
その心霊手術医は、パキータと呼ばれる78歳の女性でした。
彼女は、心霊手術を非常に長い間実践して来ていました。

その心霊手術の能力は、パンチョ・ビリャ(訳注:メキシコの革命家)軍の戦場で、彼女に到来したのです。
フィリピンでの時と同じように、彼女の患者はアメリカ人よりは原住民の方が多くいました。

彼女の手術技法における違いは、彼女の育って来た文化の違いに依るものでした。
フィリピンにおける心霊手術は、ここ三百年のうちに、スペイン人の宣教師によって教えられたキリスト教の信仰に文字通り従ったものでした。
キリスト教の教えは、ほとんど全ての田舎のフィリピン人達の生活の中心でした。

大部分の人が、ミサへ参列しました。
それでドンと私は1975年の聖週間の間、そこに滞在しました。
私達は、そこで実践されている残酷なキリスト教信仰の、文字通りの一つのタイプの証拠を見ることができました。

聖金曜日には、例えば、マニラの通りを通って大規模なカトリックの十字架のパレードがありました。
そのパレードで他の十字架のパレードと異なる点は、人間が十字架に釘付けにされていることでした。

多くの人々が、そのような状態にありました。
この試練を達成した一人は、コメントを求められて、彼はとても高められて、彼らが彼を後年でもまた選んでくれることを願ったと答えてくれました。

メキシコにおいては、もし、キリスト教信仰が完全な形で存在しているならば、そして、しばしばそうなのですが、それは残酷で内にこもったインディオの極めて強い信仰を覆い隠しています。
それは、メキシコのピラミッドの急峻な階段の上で行われた、マヤ族による無垢なるものの屠殺の記憶を内包しているのです。

その結果として、パキータは刃渡り5インチ(訳注:およそ13センチメートル)の、とても切れ味の悪いナイフを用いました。
彼女は、それを調査団全体に手渡して回覧させ、私達の反応を、特に私の反応を見ていました。
というのも、私は実験材料だったからです。

彼女の手術が腹ばいの私に対して始まってから、私は何が起こっているかの直接的な説明を受けることができませんでした。
しかし、ドンがそのナイフが4インチ(訳注:およそ10センチメートル)ほど私の背中に刺し入れられ、素早く脊髄を横切って動かされたことを教えてくれました。
これが数回繰り返されました。

パキータは、私の腎臓を手術しているのだと言いました。
今回も、私達は無駄だと分かっていたので、証拠を保存しようとはしませんでした。

心霊手術に関しては、その手術によってもたらされた産物に関して、多くの調査の試みがなされています。
そして、決定的ではない結果が得られるか、何の結果も得られないという事態となり、心霊手術はインチキだという訴えに終わるのです。

プハリッチ博士の初期の著作の中で、ジョン・フューラーによってアリゴーというニックネームで呼ばれている、南アメリカ大陸のヒーラーによる心霊手術が注意深く調査されています。
この超常的な主題に関心のある方々には、この本はちょうどよい入門書となっています。

私はまだ、このメキシコでの経験の可能性のある帰結についてテストする為に、正当な医師の協力を得ることに成功したことがありません。
このことは、もし、腎臓が既に障害を受けるに十分悪化しているのであれば、腎臓にテストをするという行為は、腎臓を不全状態に陥らせる危険がある為、正当な医師はこのリスクを冒すとは考えられなかったからです。

プハリッチ博士は、このような処理を私に施そうとはしませんでした。
このような欲求不満があるが故に、サイキックな現象の周辺領域での調査は最も興味深いものであり、有益であり、調査する価値があるのです。

このような調査を行う調査者は、忍耐強く、主題を証明するより、むしろ、単純にデータを集めるアプローチを取り、彼が調査していることに関して、一歩一歩仮説を積み上げて行くのです。
ラー資料において、このタイプの物質化現象の実現が議論されており、その情報は極めて興味深いものです。

米国に戻ると、私はもはやタイプライターとしては働けませんでしたが、まだ毎週の瞑想は続けることができました。
また、個人的な仕事として、進歩的な学生を受け持つことができるようになりました。

1978年にジェームス・アレン・マカーティは、土曜日の夜に集まって瞑想を行い、ケンタッキー州のマリオン郡の風物詩になっている”光のセンター”を形成し続けている多くの人々から、また、ケンタッキー州のレキシントンでドンと私が行っていた電話対話方式の二時間のラジオ番組から、私達のグループについて聞いたのです。
彼は多くの人々と一緒に、マリオン郡の瞑想グループから、私達の瞑想を体験する為にやって来たのです。

二回の瞑想の後、そのグループ全体としては来るのを止(や)めてしまいましたが、ジムは1980年の春からほとんど、毎週、140マイルの道のりを通ったのです。
ジムは長年の間、人類を援助するいくつかの方法を探し続けていました。

彼は1947年生まれで、ビジネス、及び教育課程を卒業していました。
更に、意識の拡張を教える為の代替手法を学んでいました。

当時、彼は、スラム街の子供達と共に働いて時を過ごしていました。
しかし、彼は、彼が探していたより明確なアイデアを発見したいという、非常に強い願望を自分が抱いていることに気がつき始めたのです。

1972年に彼は、コロラド州のロッキー山脈の標高一万フィートのところにある、山小屋に住んでいる不愛想な年老いた山男と、”脳のセルフコントロール”と呼ばれる意識の拡張を学ぶコースを予約しました。
このコースの間、彼は最初に、外宇宙の進歩した文明と通信する可能性を学びました。
その手法は、ラジオや電報や電化製品といった人工物を用いずに、人間の脳の前頭葉を使うものでした。

中心的な経験は、岩や松やセイヨウネズばかりの人里離れた荒野でなされたので、彼は、これらの脳のセルフコントロールの経験を他の人に伝えられる離れた土地でも調査しようと決心しました。
ケンタッキー州中部の、道路を横切って小川が流れる132エーカーの土地に、彼はロッククリーク調査開発研究所を創設しました。
そして、彼が思っていることに最も近い主題である人類の進化について、研究を開始したのです。

彼は、この主題に関するいくつかのワークショップを開催しました。
しかし、この地域ではほとんど関心を引きませんでした。
その為、彼は屋敷に戻り、作物を育てながら瞑想と研究を行う孤独な生活を六年半続けたのです。

彼は、まだ進歩した知的生命体との双方向の通信について明らかに興味があったので、彼はルイビルグループとの瞑想を大いに楽しみました。
しかし、彼はまた、以前よりオレゴン州のグループが行っている仕事にも興味を抱いていました。

1980年の秋に、彼はエドガー・ケイシーが深いトランス状態でチャネリングしていたのと同じ源泉と、チャネリングしていたと思われていたグループと共に働く為に、ケンタッキーからオレゴンへ旅をしました。
とはいえ、彼が日曜日の集まりから受け取った学びと、私との更なる研究からの学びを通じて、彼は内面的な探求へ向かうよう指示されたのです。
そして、表面上は、それは彼の考えと調和したものでした。

オレゴンでのたった二か月の経験の後に、彼のマインドはしっかりと確立されたのです。
彼は再びルイビルへ戻って、ドンと私と一緒に働く必要性を感じました。

1980年の12月23日に、彼はルイビルに到着しました。
ケンタッキー州中部の森からオレゴン州までの五千マイルの旅を経て、彼は再びルイビルへと戻って来たのです。

ドンと私はマッカーティの援助に対して、無限に感謝しています。

彼の能力は、並外れています。
彼は、大学時代から形而上学的な資料を把握していて、卒業してから今日までもたくさんの文献を読んで来ました。
ですから彼は、私達の研究分野に関して非常に詳しい状態で、この仕事にやって来たのです。

彼は、この調査の物質的な部分を担うことができました。
その部分とは、資料整理、ノートの作成、テープの書き起こし、私が障害を患ってから著しく損なわれた書簡のやりとりです。

ジムはいつも徹底しており、彼の土地を売却しました。
L/Lリサーチはロッククリーク調査開発研究所と合併しましたが、私という古ぼけたタイプライターを遥かに上回る新しい戦力であるジムというタイプライターの為に、この古いパートナーの名前を残すことにしたのです。

そのように、落ち着いたのです。
どうしてかって?

まあ、いいじゃないですか。

私達は、新しい本の出版について議論しました。
“UFOの秘密”の出版で学んだことを新たに取り込んで、白紙の部分を埋めることにしたのです。

ジムは、私達の膨大な調査ファイルの裏づけ調査を開始しました。
彼が来てから三週間後に、ラーとのコンタクトが始まったのです。

この年の間中、私はいつも意識的にチャネリングをしていました。
私の自由意志を使って、私自身の言葉を用いてテレパシーを使うような感じで、チャネリングをしていたのです。

1980年に私の古くからの友人で瞑想グループのメンバーであるエレーヌ・フラハーティが、悲劇的な夭折(ようせつ)を遂げたのです。
彼女は、若年性糖尿病を患っており、30歳台で亡くなったのです。

私は彼女が肉体を去る直前まで、病院で多くの日数を、彼女と共に座って過ごしていました。
彼女はしばしば、私に話していたのです。

彼女は夫であるトムに、彼女が死んだ後も彼女が元気で生きていることを、確実に気づいていて欲しいと思っていたのです。
というのも、彼女はもう直ぐ死ぬことを分かっていたのです。

彼女は、トムに話しました。
古くからの瞑想グループのメンバーにも、話しました。

彼女の葬儀後、トムが私のところにやって来て、私がエレーヌと接触できるかどうかを尋ねて来たのです。
私は、あまりにも膨大な降霊会に参加していながら、誰かが亡くなった親しかった人と交信しようとするタイプの、たくさんの依頼を受けていませんでした。

ですから、最初は、私はそのような“霊媒”を試みることに気が進まなかったのです。
とはいえ、彼らは私の親友でもありましたので、断ることができなかったのです。

トム、ドン、そして、エレーヌとトムの息子のマイクが最初の試みの為に、私と一緒に集まりました。
意識的にエレーヌとのコンタクトの為に、私自身を捧げてしばらくの後、私は時間の経過が分からなくなって来ました。

私が目覚めた時、トムが、私がエレーヌの声で話しているテープ録音を聞かせてくれました。
これが、私の最初のトランス体験でした。

私には、分かりませんでした。
現在に至っても、それがどのように起こったのか分からないのです。

トムは、もし、私が許すなら、もう一度これを行って欲しいと頼んで来ました。
私は再び、非常に深いトランス状態へと向かっていったのです。

全く、記憶がありませんでした。
このセッションの後に、エレーヌのような声が録音テープから再生されるのを聞くばかりだったのです。

ドンは、もし、彼が私とは別の部屋で、私の姿を見ることなく私の声を聞いたのであれば、彼はその声の主がエレーヌだと確信しただろうと言いました。

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